俺は、お前のことを忘れない。きっと、忘れられないのだろうけれど。



 ありふれた平穏がひび割れても、いつものようにパンを焼いて、いつものように焦がしてしまう。非日常の中で敢えて日常を貫く。その行為はどこか、嵐の夜に幼子が膝を抱えて忍ぶ姿に似ていた。
 目を瞑り、恐ろしいものが通り過ぎるのをじっと待つ。なんらの手段も投じずに、ただ堪える。無力な子どもがするような、幼稚な行動だ。
 ただ俺の場合は、と心の中で付け加えた。
 恐ろしいものが訪れるのを、待ち望んでいたのかもしれない。
 悶々とした思惟を巡らせながら、小麦の入った袋を両腕で抱え込んだ。思いも寄らず息が詰まる。袋がいつもの倍以上の重力を持ったような圧迫を感じた。
「……っと、っと」
 袋の中身を零しそうになり、慌てて体勢を整える。わっ、と間の抜けた声を出した時には既に遅く、床に尻餅をついていた。ずしりとした重みが膝の上にのし掛かる。幸いにも、袋の中身は零れずに済んだようだ。
 はあ、と安堵とも嘆きともつかぬ溜め息が口から零れた。
 連日の睡眠不足が祟って、体はやけにだるい。パンを作ろうにも身が入っていないのは、俺自身が一番承知していた。
 苛立たしげに後頭部をがりがりと乱暴に掻く。らしくもない、鬱々とした気分が腹の奥底でわだかまっていた。

 恐ろしいものが訪れるのを、幼気な子どものように無心に待っていた間はまだ良かったのだ。

 立ち上がり、埃を払うようにエプロンをはたく。意味もなく、袋の中に詰まった小麦を見詰めた。その一粒一粒に苦悩の答えが書かれていると言わんばかりに、じいっと目を凝らした。
 瞬きの後には、ふらりと店外へと足を踏み出していた。
 数日前から霧に囲まれた村内は、白々とぼやけていた。十歩先は不明瞭なほどに、霧は濃い。視界も頭もぼんやりと判然としていないため、亀のように鈍い足取りで歩む。さくっ、さくっと。朝露のせいか霧のせいか、湿った草地の感触を足の裏が伝える。
 陽射しは頼りないまでに弱かったが、かすかな温もりを背中に注いでくれた。
 どこに行こうと、していたわけではなかった。強いて挙げるなら気晴らしに外の空気を吸いに来た、というところだろう。思いつきを実行するように、歩みを止めぬまま、新鮮な朝の空気を肺一杯に取り込んだ。
「オットー?」
 不意に横合いから掛けられた声に、ぎょっとした。
 折り悪く、拳大の石が爪先に引っ掛かり足を取られた。崩れたバランスを整える合間は、俺には残っていなかったらしい。踏み留まる間もなく前につんのめって、そのまま地面にどてっと派手に全身を打ち付けた。
 しばし時が止まったのではないか、と思うほど周辺が妙に静かになった。しぃん、と耳に痛いほどの沈黙が、ますます自分を無様にしているようでもあった。
「……何してんだよ、新手の芸か?」
 俺はいつからパン屋から芸人に転職したんだよ、という悪態は喉の奥にぐっと押し込めた。
「見れば分かんだろうが、石につまずいたんだよ……」
 むっくりと上半身を起こし、髪や服についた草や砂を忙しなく払った。少し先にある畑から、緩やかな歩調で農夫が近寄ってくる。俺は反射的に、睨むように見上げた。
 ヤコブは片手には鍬を、頭には習慣付いているのだろう、この淡い陽射しにもかかわらず麦藁帽子を被っていた。その瞳は悪びれる風もなく、地面に胡座を掻いた俺をもの珍しげに見下ろしている。
「つまずくのはパン作りだけにしとけって」
 鍬の刃先を地面に向け、ヤコブは肩を竦めてみせた。
「……うっさい、余計なお世話だ」
 無駄な押し問答をする気力はなかった。言葉少なに吐き捨てるように言い、額に手の平を当てる。ずきずきと痛むこめかみを意識せざるを得なかった。
「なんか、いつもの勢いがないな。どうした?」
 二の腕の辺りを、鍬の柄の先でつんつんと突っつかれる。むかっ腹が立った。その気楽な所作と、汚物のごとき扱いの両方を抗議するように、鍬の柄を乱暴に振り払った。
「つつくな! こっちは寝不足なんだよ! 俺はちゃんと睡眠取らないと駄目なタイプなんだよ。徹夜なんて到底できねえっての、うっ……」
 勢いよく立ち上がろうとして、眼前がふらっと明滅した。突発性の目眩を覚え、再び地面に膝をつく。瞼が重く、垂れ下がるようだった。
「やばい……すげえ眠くなってきた……」
 呆れたような溜め息が、頭上から漏れ聞こえた。
「寝ればいいんじゃないか? 集合時間までもう少しぐらい時間あるだろ」
 人狼騒動が起きて以来、定時に教会に集まるのが村の決まりだった。一日に一人、人狼として疑われる者は処刑される。大事な、決めごとだった。
「いや、今寝たら軽く昼まで寝そう。……それじゃ、集合時間に間に合わん」
 遅れるわけには行かないだろ、とぼやく。
 かすかに項垂れたままの頭に、ふっと何かが被さった。目前の視界が急に覆われる。
 何だろう、とのろのろと片手を動かした。手触りで確かめると、どうやら麦藁帽子のようだった。
 いいから寝とけ、とでも言いたいのだろうか。
(だからよー、今寝たら起きられそうにないんだって……あー)
 反駁は現実には声となっていなかった。遮られた視界は、白ぼけた朝陽さえも断ち、程よい暗さを与えてくれている。眠気が強すぎて、もはや拒む気にもなれない。
 俺は睡魔を振り切るのを潔く諦めた。腕を枕にして、だらしなく草地に横たわる。渡された麦藁帽子を、ひょいっと顔の上にのせた。
 近くにいたヤコブの気配は、すぐに遠ざかった。大した間も置かずに、ざくっ、ざくっ、と鍬で畑を耕しているのだろう音が、耳を打つ。
 暢気なものだ、と心の中で毒突く。今日処刑されるのは、彼自身かもしれないというのに。
(……誰のせいで、寝不足だと思ってんだか)
 地面に横伏せているからだろう。湿った草の匂いが、鼻孔を掠める。まだ肌寒さを覚える外気の中にかすかに夏の空気さえも嗅ぎ取った。これは、おそらく麦藁帽子の薫り。
 さわさわ、と木々の葉がかすかに揺れた。時節特有の穏やかで生暖かな風が、全身をくすぐっていく。
 奇妙なことだ、と我ながら思う。ヤコブが人狼もしれないという疑いの目を、真正面から強く向けたのは他ならぬ俺だと言うのに。
 未だに一番躊躇いを覚えているのも、他ならぬ俺なのだ。
 けれども、と頭の片隅で、今に及んでの逡巡を打ち消すように反語が響いた。
 ヤコブ。お前が人狼なら俺は喰われても良いと思ってた。お前を処刑するぐらいなら、喰われた方がいいと思っていたよ。
 けれども一日二日と村人が減っていき、不意にその気持ちは形を変えた。
 もし、このままヤコブを見逃して。自分が喰われ、村人全員が喰われたら彼はどうするのだろうか?
 飢えた獣は留まるまい。食するものが無くなった地を離れ、次の人里を狙い、また喰らう。生を営む限り、捕食者は永遠に人の地をさ迷い続ける。
 その繰り返しの中で、いつしか俺は忘れられるのだろう。
 昨日食べたパンのことは覚えていても、一年前に食べたパンなど容易には思い出せない。毎日、口にするものなどいちいち覚えてなどいられない。 <『食糧』、とはそんなものだ。
(……耐えられねえな)
 食されることはまだしも受け入れられたろう。人道に外れたその罪が増すことも、俺だけは許せていただろう。
 いつか忘れられることだけは、どうにも耐え難い。
 それがこの人狼を野放しに出来ない、俺の最たる理由だった。身勝手だろうか。例えそうだとしても、構わない。
 見過ごし切れない、というのが真実であり、ならば取るべき道はひとつのみ、だ。
 せめて。そうせめて、自らの手でヤコブに引導を渡そうと心に決めたのだ。
「ヤコー」
 視界を覆う麦藁帽子をずらしもせずに呼び掛ける。気づきはしないだろうと高を括っていたら、鍬を振るう音が途切れた。
 無言で続きを待っている、農夫の姿が脳裏に鮮やかに浮かび上がった。
「……――よ」
 一際強い風が体温を奪い尽くすように吹き荒び、木々の梢を大振りに揺らす。ざああっと不穏に耳朶を奏でる音が、顔に乗せた麦藁帽子をも奪い去っていった。
 あ、と慌てたような驚いたようなヤコブの声がかすかに聞こえる。
「ちゃんと帽子押さえとけよ。……で、今なんて?」
 届かなかったのか、頭の片隅でちらりと思った。
 それでもいいか。それで、良かったのだろうと自分自身に言い聞かせるように胸の奥で呟く。静かに呼吸をつき、浅い眠りへと沈んでいった。
 風が攫ったその言葉。もう二度と口にすることは赦されないのだから。



――好きだよ。
 例えお前が人を喰らう獣でも。






初参加村でした。はじめノーマルだったんですけどね…ヤコ、張り付きすぎた。

村内ではけっっっしてこんなシリアスではないので注意です!w